始皇帝の文字統一

『説文解字』の叙が,始皇帝による文字の統一に触れている。

及宣王大史籀著大篆十五篇、與古文或異、至孔子書六經、左丘明述春秋傳、皆以古文、厥意可得而説、
其後諸侯力政、不統於王、惡禮樂之害己、而皆去其典籍、分爲七國、田疇異畮、車涂異軌、律令異法、衣冠異制、言語異聲、文字異形、秦始皇初兼天下、丞相李斯乃奏同之、罷其不與秦文合者、
斯作倉頡篇、中車府令趙高作爰歴篇、大史令胡毋敬作博學篇、皆取史籀大篆、或頗省改、所謂小篆者也、是時秦燒滅經書、滌除舊典、大發吏卒、興戍役、官獄職務繁、初有隷書、以趣約易、而古文由此絶矣、

(周の)宣王の時,大史の籀が「大篆十五篇」を作った。「古文」とは違う書体が含まれていた。孔子が「六経」を著し,左丘明が「春秋伝」を書くにあたってはすべて「古文」を用いたが,その内容は理解できた。
その後,諸侯は武力を行使し,周王の統制から離れた。礼楽によって批判されることを嫌って典籍を廃棄した。中国は七か国に分かれ,(国ごとに)面積の単位は違い,車輪の幅は異なり,律令は違う制度となり,礼服の制度も違い,中国語の発音も差が生じた。文字も違ってしまった。秦始皇が天下を統一して間もない時,丞相の李斯がこれらを統一して秦の書体と違う文字は廃止するべきことを奏上した。
李斯は「倉頡篇」を作り,中車府令の趙高は「爰歴篇」を作り,大史令の胡毋敬は「博学篇」を作った。いずれも史籀の「大篆」にもとづいたが,(筆画を)かなり省略した文字もあった。これが「小篆」である。この時,秦は経書を焼き,古い典籍を廃棄し,大規模に軍隊や役人を動員して工事をおこなったので,役所や監獄の業務が増加した。ここに隷書が登場し,素早く書記できるので「古文」はこれによって廃れたのである。

この記事について

韓康片先生が2008年10月 7日 14:40に書きました。

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